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マウンテンバイクになれなかった自転車

2013年10月31日 2:26 PM

 自転車史を紐解けば、マウンテンバイクのルーツは、70年代前半にゲイリー・フィッシャーがビーチクルーザーを改造し、サスペンションを取り付けたのが草分け。いやいや、ジョー・ブリーズが山坂の走行用に設計したフレームのものが最初・・・などと言われるが、かつて日本製のオフロード走行用自転車があったことをお忘れなく。

 1974年に発売された「ヤマハモトバイ」のメカニズムは、前後サスペンション付。フロントサスはカヤバ製のチェリアーニ型、リヤはスイングアーム式コイルスプリング、前後ドラムブレーキ、ブロックパターンのタイヤにアップライトフェンダー、タイヤは20×2.125の極太サイズにブロックパターン、縦長のシート・・・つまり当時のモトクロスマシンのメカニズム様式をしっかり踏まえていた。最大の違いは、エンジンとフューエルタンクが無いことだ(当たり前!)。ほぼ同時期に発売された「スズキバンクル」はこれに比してちょっと緩めで、前サスはナイトハルト式、リヤはリジットサス。しかしこちらはダミーのフューエルタンク付き(!)。「オートバイ」誌の紹介記事の見出しは、ズバリ「エンジンレス・モトクロッサー」。価格は\46,800\35,600

 こんな車種が生まれた背景は、70年代前半、モトクロスが意外に人気スポーツだったのだ。一般マスコミには全く無視されていたが、オートバイブーム最中の一般ライダーの間ではモトクロスへの関心は高く、オートバイ専門誌は毎号誌面で大きく扱い、鈴木兄弟や吉村太一らの一流ライダーはスター扱い。ライダー国内のモーターサイクルレースを統括するMFJおよびMCFAJ両団体公認レースは全日本選手権から草レースまで合わせて年間150戦以上(1974年)。1973年8月に阿蘇山麓大観峰で開催された全日本選手権日本GPには数万人の観客が詰め掛けた。各モーターサイクルメーカーは市販オフロード車の巨大なマーケットを視野に、技術開発やメーカーの威信高揚、イメージアップなどを目的にモトクロスに参戦し、特にスズキとヤマハは世界選手権GPで覇を競い合うライバルだった。両社は競技の普及と底辺での選手育成のため、全国各地に30ヶ所近いモトクロスコースを開設(オフシーズンのスキー場を活用した例が多かった)、独自の地方選手権シリーズを年間数十戦開催していた。

 その一方で実は、今や「ワゴンR」で名高いスズキだが、当時は本格派ランドナー・少年向けスポーツ車(デュアルヘッドライトや大袈裟なデザインのシフトレバーを装備したヤツ!)・婦人用軽快車などのラインナップを揃える、れっきとした自転車メーカーでもあった。ヤマハも70年代中期には婦人用車を発売していた。「バイコロジー」が盛り上がった1973年にはヤマハがプジョー(仏)の、スズキがモトコンフォール(仏)の、ホンダがラーレー(英)の輸入販売を相次いで始めて話題になった。残念ながらいずれの提携も長く続かなかったけれど。

 こう見ると両社がモトクロスと自転車を結びつけた商品を開発されたのも、ブームが生んだ必然的展開のような気がするが、いずれもそれほど大したヒット商品とはならず、ゆえに生産販売された期間は短く、アメリカ西海岸発のマウンテンバイクのブームには影響を及ぼさなかった、あくまで傍流にとどまった、ということだ。

 余談だが、その頃アメリカ西海岸で、モトクロスを自転車でやろう、と始められたのがバイシクルモトクロス(通称BMX)。えっ? ヨーロッパで古くから行われているシクロクロス(不整地を走る自転車競技)とは違うの? 自転車なのに「モト」とはこれいかに!? アメリカではモトクロスは大人気スポーツで、自転車スポーツはマイナーだから、「モトクロスの自転車版」といった方が一般には判りやすかったのだろう。シクロクロスとBMXの違いは欧と米の文化の違いか。

されはさておき。

70年代に一世を風靡したジュニア向け自転車、いわゆる「デコチャリ」について「クルマになりたかった自転車」と評される事があるが、それを踏まえるならば上記の2車は「モトクロッサーになりたかった自転車」であり、「マウンテンバイクになれなかった自転車」なのだろう。

現在のMTB、特にダウンヒル用バイクは前後サスやディスクブレーキが当たり前で、エンジンレス・モトクロッサー的なのだが、そこへ2003年、ホンダからダウンヒル用ワークスマシンRN-1が登場。モトクロス界を制した大メーカーが開発したワークスマシンが参戦開始。ギアボックスがペダル部分に付くのはモーターサイクル的発想だが、トップフレームがフューエルタンクのダミーに見えるのが泣かせるというか笑わせるというか・・・言わば「半分くらいモトクロッサーになりかけている自転車」かな?

ホンダの参戦は一般マスコミには大きく取り上げられなかったが、その意義は、1959年6月のマン島T.T.での2輪世界GP初参戦、1964年8月ドイツGPでのF1初参戦、1971年8月全日本山口モトクロス大会での2ストロークエンジン初参戦、1973年5月のスコティッシュ6日間トライアル初参戦に匹敵するチャレンジかもしれない、と筆者は考えているのだが・・・。

 

参考文献:

オートバイ1975年8月号。モーターマガジン社、1975

バイシクルナビ No.11。二玄社、2004

 


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